令和初の大会となった夏の甲子園は大阪の履正社が制したが、かつて甲子園を盛り上げた夏のヒーローは今、何をしているのか。(文中敬称略)
夏の甲子園大会で革命が起こったと言われるのが、昭和57年(1982年)の池田高校だ。それまでの3年間、高校野球は早実の荒木大輔を中心に回っていたが、その早実を準々決勝で14対2と粉砕。そして決勝は機動力を駆使した高校野球の模範といえる名門・広島商業を、それまでの高校野球の常識を覆すかのようなホームラン攻勢で12対2と圧倒。名将・蔦文也監督率いる破壊力抜群の「やまびこ打線」は、高校野球新時代の到来を高らかに告げた。このチームのエースが畠山準(55)だ。畠山が当時を振り返る。
「僕らのチームは、足が遅いしバントは下手だったから、打つしかなかったって感じです。甲子園では決勝までピッチングもダメ、4番なのに僕だけホームランが出てなくて、ずっとモヤモヤした感じだったんですが、決勝で打ててちょっとスッキリしましたね」
畠山は大会屈指の好投手の触れ込みで大会に乗り込んだが、失点を重ね、思うようなピッチングができなかった。それでも145キロ超のストレートの威力は度肝を抜いた。
「練習で200、300球は平気で投げていましたから。実戦形式のフリーバッティングで僕と金太(水野雄仁・元巨人)でガンガン投げてました」