1976年、高校2年生という若さで資生堂のキャンペーンモデルに抜擢され、鮮烈なデビューを飾った真行寺君枝。その後、女優として映画、テレビ、舞台、ナレーションなど活躍の幅を広げてきた彼女も、今年還暦を迎える。いまでは化粧品の新ブランド開発も手掛ける真行寺に、“美”へのこだわりを訊いた。
──資生堂のCM「ゆれる、まなざし」は、真行寺さんの美しさや個性も相まって、いまだに語り継がれる名作になっていますね。
真行寺:あのときはまだ16歳でしたからね。モデルとしては小柄なほうだったので、その後は女優になったのですが、自分のアイデンティティも確立される前に社会の荒波にもまれたものですから、じつは日々“窒息状態”だったんです。とにかく仕事が忙しく、良くも悪くも人の目にさらされる仕事が、いつまでたっても好きになれませんでした。
そんな時、なぜだか分からないのですが、頭の上に「自然」の2文字が浮かび上がってきたんです。
自然というと、人の手が加わっていない、ありのままの大自然だけでなく、人間に対しても「自然に振る舞う」などと表現しますよね。その関連性やつながりは何なのか、自分の閉そく感を解決するものは、きっと自然の中にあるんじゃないかと漠然と感じていたんです。私は東京の片隅の京浜工業地帯で生まれ育って故郷もなかったので、自然や田舎への憧れがあったのかもしれません。
そこで、20代に入ってから少し仕事をセーブして、長野県・伊那市にある標高1000mの廃村(芝平=シビラ)に家を持ち、子どもが小学生になるぐらいまで東京と芝平を行き来する生活を続けていました。
──廃村と聞くと、滞在するにも不便な場所だったのではないですか?
真行寺:標高1000mの家は、今にもクルマが落ちそうな細い坂道を登っていかなければ辿り着けず、一番近い店はクルマで20分以上走らなければなかったため、芝平に行くときはクルマに1週間分の食料を積んで滞在していました。思う存分、自然に触れたかったので、あえて電話もテレビも時計すらも置きませんでした。そして、東京に戻ってからも、仕事に疲れたら、また満月を見に芝平に向かう──そんな生活でした。
──廃村での暮らしを経験して、自然に対する考え方は変わりましたか?
真行寺:人間も自然の一部なんだと感じましたね。モデルや女優の仕事は人間の手によって創造物を生み出す職業ですが、芝平での生活を経て、自然が創り出す“芸術品”にすっかり魅せられました。木々や風、光さえも都会と1000mの廃村ではまったく違う。そんな中で自分も自然というものに目覚めていきました。
もちろん、大自然の中で心身ともに逞しくもなりました。それまで私は敏感肌で悩んでいたのですが、気付いたら健康的でトラブルの少ない肌に生まれ変わっていました。
──芝平の美しい大自然は、写真集『シビラの四季』(1992年/撮影:沢渡朔)にもたくさん収められていますね。
真行寺:写真家の沢渡さんとはずっと仲良しで、ライカの古いカメラで撮ってくださった芝平の風景は、この世のものとは思えないほど特別で、「これは自分たちだけで収蔵しておくのはもったいない」と写真集を出すことにしたんです。この写真集が、自分の手でものを作り出す最初のきっかけにもなりました。