日韓外交の在り方を考える材料として、戦後、日本と韓国それぞれの政治家が外交の場でどう振る舞い、現在の日韓関係の混迷に至ったのかを辿ってみると、浮かび上がってきたのは、両国の歴代の主要政治家たちによる、「その場限りの利権や贖罪のための友好」という、「善隣外交(隣国との友好を深めるための外交政策)」とは似て非なる成り立ちだったことである。
1965年に結ばれた日韓基本条約とそれに伴う日韓請求権協定が締結されると、日本から韓国に巨額の資金が流れ込む。
韓国が日本に戦後賠償を求めたのに対し、日本は当時の韓国の国家予算の2倍にあたる5億ドル(無償3億ドル、有償2億ドル)の経済協力を行なうことで合意した。
この補償金が日韓の政治利権へと化していく。日本からの経済協力は現金ではなく、日本政府が日本企業から車両や重機や工作機械などを買い上げて韓国に渡したり、日本企業がインフラや製鉄所などを現地に建設したりするというスキームだった。
1980年、粛軍クーデターで国軍保安司令官だった全斗煥・大統領が政権を掌握すると、1982年には「教科書問題(※注)」が起きる。
【※注/1982年6月、文部省(現文科省)が教科書検定で高校日本史の中国華北への日本軍の「侵略」という表現を「進出」に書き換えさせたという報道が一斉に出たため、中国が日本政府に抗議。韓国政府も是正要求を行ない外交問題へと発展した。後に報道が誤報であることが判明するが、宮沢喜一官房長官が「政府の責任において是正する」との宮沢談話を発表し、教科書検定基準に「近隣諸国条項」が加えられた】