知の特権、という言葉だけをきくと、すぐれた知性を極めた末の力であるかのように感じるが、実際にはそうではないと評論家の呉智英氏は指摘する。知の特権が実は強者の特権として行使され続けてきた実例をあげつつ、普遍の類義語としての「知」について疑問を投げかける。
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本欄の私の担当回で、『週刊ポスト』九月六日号では「表現の不自由展」の「少女像」騒動を論じ、次の九月二十・二十七日号では伝天皇陵発掘調査やアイヌ遺骨研究には知の特権の問題が根底にあることを指摘した。今回もこれに通じるテーマだ。
七月三日付朝日新聞の外報欄は、ニューヨークの公園に設置されていた十九世紀の医学者J・M・シムズの銅像が昨年撤去された事件を大きく報じた。シムズは米国医師会長を務め、婦人科医学の父とまで呼ばれるほどの功績がある。しかし、奴隷解放宣言の前とはいえ、黒人女性を生体実験に使っていた。十七歳の黒人少女には三十回もの手術が行なわれ、しかも麻酔は使用されなかった。
シムズが医学の進歩に寄与したのは事実だが、批判も当然だし銅像撤去もまた当然だろう。
記事には、十九世紀の白人による黒人への甚しい偏見も紹介されている。それは、黒人が白人に較べて能力が劣るといったものではなく、黒人は皮膚が厚く痛みに強いといった、むしろ“誤った長所”とも呼ぶべき偏見である。これが麻酔を使わない人体実験の背後にあった。しかも、この偏見は現代も残存し、白人の医学生たちへの調査では半数以上が黒人は痛みに強いと信じている、という。
アメリカの黒人女性作家バーバラ・チェイス=リボウは、第三代大統領T・ジェファーソンが黒人奴隷を妾にしていた事実をテーマにした歴史小説『サリー・ヘミングス』で世界的に知られる。