6月に火が付いた香港のデモはまだまだ収束する気配が見えない。一方、中国本土でも、「民主化」要求運動はこれまで何度も行われてきた。そんな運動のひとつに関わり、やがて中国当局から追われる身となった民主活動家の一人に、『もっとさいはての中国』著者の安田峰俊氏がタイのバンコクで再会。亡命した中国共産党の元エリートが安田氏に語ったこととは──。
* * *
「久しぶりだね。来てくれてありがとう、本当に嬉しいよ!」
「ご無沙汰しています。元気そうじゃないですか!」
握手を交わし、互いに肩を叩き合うと、彼の上腕部の筋肉が以前よりも固くなっていた。バンコクでの亡命生活のなかで、中国医学の診療所のマッサージ師として働いているからだろう。2017年11月、往年は中国で誰もがうらやむ高級官僚のタマゴだった男は、いまや異国の中華街でそうやって生計を立てて暮らしていた。
顔伯鈞(イエン・ボォジュン)、本名は顔克芬(イエン・クーフェン)。1974年生まれの当時43歳。かつては中国共産党員として2005年に党の最高学府である幹部養成機関・中共中央党校の政治経済学修士課程を修了。その後に北京市通州区に勤務したが、腐敗や社会矛盾を目の当たりにしたことで官界に嫌気が差し、北京工商大学の副教授に転身した。
やがて、統治体制が弛緩していた胡錦濤体制末期の2012年、中国国内で盛り上がった体制内改革運動「新公民運動」に加わり、主催組織である公盟(ゴンモン)の幹部として活動。彼が参加した新公民運動は、社会問題を語り合う食事会を開催するという穏健な活動方針が特徴で、最大時には中国全土で10万人規模の参加者を集めることに成功した。
だが、習近平の権力掌握とともに公盟の活動に対する圧迫が強まり、複数の仲間たちが逮捕や拘束を受けることになる。顔伯鈞は2013年4月から逃亡生活に入り、山西省の内装工事現場から湖南省の山里、山東省のムスリム村、果ては雲南省からチベットに抜ける道なき道まで2年間にわたり逃げ続けたが、中国にもはや安住の地はなかった。
結果、2015年1月にミャンマー東北部の軍閥支配地域に陸路で密入国。さらに南下してタイで亡命生活を送ることになった。バンコクに到着した直後、現地を旅行中の私とたまたま知り合ったことで、2016年6月に『「暗黒・中国」からの脱出』(安田峰俊、編訳)という逃亡記を文春新書から刊行している。