【書評】『最後の弟子が語る折口信夫』/岡野弘彦・著/平凡社/2600円+税
【評者】嵐山光三郎(作家)
折口(歌人の筆名は釈迢空)は女を近づけず、終生妻を持たなかった。愛弟子に囲まれて六十六年の文学的生涯を終えた。最後の弟子岡野弘彦は、九十五歳となり、「これだけは書き残しておきたい」という一念で、この一冊を仕上げた。折口は冥界からの使者といった気配があり、それを白秋は「黒衣の旅びと」と言い、三島由紀夫は「古代の語部」と同種の「暗い肉体的宿命」と評した。
折口は講義や講演をするとき、ノートや資料を持っていかなかった。原稿は口述筆記で、多くは深夜の時間。六十代の折口と、二十代の岡野と、親子というよりは祖父と孫ぐらいの年齢差であった。そのふたりが向かいあって『万葉集』『古今集』『新古今集』の名歌に没頭する。折口が低い声でぽつりぽつりと口訳し、岡野が筆記していく。なんと濃密でひそやかな時間だろう。
折口は文学報国会の席で、高級将校と激しく対決した。陸軍や海軍が事実を曲げて報道することを戒めた。軍人が怒って粗暴になると、冷静に鋭くなり、その弱点を衝く人であった。所作がやさしく見えたが、本当に怒ると不動明王のような相貌となり、額の青痣が焔のように燃えた。そのため「妖婆折口」と蔭でけなす人がいた。室生犀星は、折口の端麗な顔の鼻筋の左側に、したたるようにある青痣に心を呼せ、
痣のうへに日は落ち
痣のうへに夜が明ける、有難や。
と書いた。