早稲田大学在学中から実業に手を染めていた康次郎のそれは、息子・清二が言うように、事業に手を出すもののことごとくが失敗だった。船成金を真似た造船業、真珠王・御木本幸吉を真似た真珠の養殖……いずれも手痛い目に遭う。
だが、康次郎は諦めなかった。飛躍のきっかけをくれたのは早稲田大学創設者にして、政治家の大隈重信だった。大隈に私淑していた堤は大隈が係っていた雑誌「新日本」の経営を任される。結果的に経営は上手く行かなかったものの、その雑誌で取り上げられていた欧米のニューヨーク、ロンドンなどで起きていた新潮流に注目する。それは住宅地が大都市圏から郊外に移っている状況や、避暑地の開発がブームとなっている様子などだった。
時あたかも大正デモクラシーが生まれ、日本にも小金を持った中産階級が誕生していた。康次郎が目を付けたのは、こうした時代が産み落とした中産階級向けの別荘開発。当時としてはまったく新しいビジネスモデルだった。
「失敗の果てにたどり着いた不動産が、結果として康次郎さんにとっての金鉱脈だった。彼を突き動かす衝動があったんでしょうね。その衝動というか、情念というか……」(清二)
戦後、康次郎の名をさらに知らしめたのは、皇籍剥奪など経済的に困窮していた旧皇族の屋敷を買い取っては次々と“プリンス”の名前を冠したホテルを全国に展開していったことだった。
「皇室など高貴なものへの徹底したコンプレックスと飽くなき不動産への執着が生んだのが“プリンスホテル”だった」