令和初のプロ野球契約更改で「保留第一号」となったのは、中日の中継ぎ投手・祖父江大輔(32)だった。3年間で130試合に登板した貢献度をアピールした祖父江に対し、球団は「評価するが(査定の)ポイントにはない」と主張。意見の食い違いは大きかったが、それでも2度目の交渉で当初の提示額から100万円増の年俸3500万円を勝ち取った。
こうして選手と球団が歩み寄るケースもあれば、交渉が難航し、球史に残るドロ沼劇に発展したこともあった。
1956年に阪急に入団した350勝投手・米田哲也は「我々の時代はそもそも球団と交渉の余地がなかった」と振り返る。
「大卒の初任給を歌ったフランク永井の“1万3800円”が流行した昭和30年代、僕の初任給は月給3万円でした。1年目に9勝すると、オフの交渉で9万円になり、21勝をあげた2年目オフには18万円、23勝の3年目オフには20万円と上がっていった。
だけど、その先がなかなか上がらない。“40勝も50勝もできるわけじゃないんだから、もっと上げてほしい”と球団に言うと、“客が入らんからな……”の一点張り。そう言われてしまうと反論できなかった」
1949年に中日に入団した杉下茂も「交渉なんてなかった」と語る。
「球団代表にすべて任せていた。戦後間もなくだったから、野球ができるだけで幸せだったからね。あとで聞くと、“サラリーマンの生涯賃金を10年で稼げる”という基準だったと説明を受けました」