ところが、彼らは「いざとなったら」という話ができない。たとえば「原発事故が起きた場合を想定して避難訓練などの予行演習をしなければならない」と提案したら、「そんなことを言ったら、お前は事故が起きると思っているのか、と地元の住民に突き上げられるから無理です」と拒否された。これはいわゆる「言霊」(言葉には霊的な力があり、発した言葉通りの結果が現われるとされる)の世界であり、その壁の前で自民党の国会議員は思考停止状態に陥っているのだ。
独占企業体の電力会社は「言霊」で真実を語らず、立地先の政治家や役人と刎頸(ふんけい)の仲になり、地元対策費で立派な施設や道路を建設し、原発メーカーとそのおこぼれに与る地元の土建業者や御用学者なども含めた産・官・学の「原子力ムラ」を形成している。その醜い“複合汚染”の構図を露呈したのが今回の関西電力の問題であり、そこには原子力に対する夢も情熱も矜持もない。巨額の「原発マネー」を卑しく漁っているだけである。
かつての日本の原子力関係者には夢や情熱や矜持があった。原子力は、資源がないこの国にとって大きな希望の灯だった。だから私は原子炉設計者になった。しかし、ほどなく原発は“鬼っ子”扱いされ、立地先の住民説明会に行くと石もて追われるようになった。それを抑えるため、原発メーカーは地元にカネをバラ撒くようになった。後ろめたさをカネで解決することにしたのである。そんな産業に未来はないと私は判断し、原子力に見切りをつけて日立製作所を辞めた。当時28歳、48年前のことである。
日本の原発がそういう惨めな状況になったのは、根本的に国が悪いのだ。本来、原発建設・稼働については国が全面的に責任を負い、住民の疑問や懸念を払拭していくべきなのである。
たとえば、福島第一原発事故後は9電力会社がバラバラに原発を運用するのではなく合体し、原発メーカーも含めて1社にまとめて輸出も行なっていくという体制に転換する。その上で国が責任を持ち、第三者委員会がチェックする。そうした体制を整えることで安全性を担保して「禍転じて福となす」べきだった。