〈傍目には、目の見える人がメモを取っているのと何ひとつ変わらない手の動き。見えなくなって一〇年間、書く能力がまったく劣化せず、鮮度を保ったまま真空パックされているかのようでした〉
〈一〇年前までの習慣を惰性的に反復する手すさびとしての「書く」ではなくて、いままさに現在形として機能している「書く」〉
〈全盲であるという生理的な体の条件とパラレルに、記憶として持っている目の見える体が働いている。まさにダブルイメージのように二つの全く異なる身体がそこに重なって見えました〉
◆読書は自分と違う「体」と出会う行為
「特に中途障害者の場合は、健常者としての記憶が刻まれた体と、障害のある今の体が2つある〈多重身体〉を生きている部分がある。そのギャップをどう埋め、失った機能をどう補うかという工夫や鍛錬によっても、体の固有性は作られます。
障害者の世界は障害ごとの縦割りで考えることが多い。ですが、中途失明の方と四肢切断の方が中途障害共通の悩みを共有できるような横の繋がりを作りたくて、今回は幅広い障害を取り上げてもいます。確かにその人の体はその人固有のものです。その上で障害の種類や有無も超えて、相手の体をわからないなりにわかろうとするような、翻訳の仕事を私はしたい。誰でも当事者になれるのが、体の話なので」
〈「書くこと」を通して、玲那さんは自分の体と物理的な環境をダイレクトに結びつけ、他者が介入しない自治の領域を作り出します〉〈身体を多重化させることによって〉〈社会と自分をつなぎなおしているのです〉といった読み解きはまさに著者ならでは。
また23歳の時に事故で左足膝下を失い、現在は義足のプロダンサーとして活躍、リオパラリンピック閉会式にも出演した大前光市さんの厳密な身体作法を、伊藤氏は車の〈マニュアル制御〉に擬える。歩くこと一つにも意識化や言語化を要する〈めんどくさい〉感じが、オートマ依存者にも伝わってくる。