1年の評価が金額で示される契約更改の場は、禍根を残すこともしばしば。グラウンドの外にはドロ臭い「年俸交渉」の球史がある。
初の1億円プレーヤーとなり、1991年には史上2人目の年俸調停を行なった落合博満氏は、現役引退後も契約更改で存在感を発揮した。
2004年に中日の監督に就任すると、1年目にリーグ優勝を達成。中日ナインを“厳冬更改”が待っていたのは、2位に終わった翌2005年オフのことだった。当時の中日番記者が語る。
「この年に問題となったのは、落合監督が年俸交渉に口を出す“オレ流査定”が行なわれているのではないか、ということでした。不動の2番・ショートとして全試合に出場し、打率.323を残した井端弘和に対し、球団が提示したのは3500万円アップ。少ないと感じた井端は保留し、“ショックで震えることってあるんですね。金額を見た瞬間に足がガクガクになりました”と発言し、その後の交渉で6000万円アップを勝ち取った。
クリーンアップとして100打点を達成した福留孝介もアップ幅が少ないと憤慨。“(井端が)1回ゴネて上がるのはおかしい”“年俸が上がらないから車が買えない”などと恨み節を連発し、7000万円増となった。選手には“アイツは好かれているから上がり、オレは嫌われているから下がる”と疑心暗鬼になったり、不満を持つ者もいた。
GMとなって1年目の2013年オフには、“オレ流査定”で総額4億円以上の大減俸を行なった。その際に、88%減の提示を受けた井端は、退団して巨人に移籍しました」