戦後の出版文化の賑わいの中にはヌードがあった。昭和の女優ヌードや平成で開花したヘアヌード──時代ごとのヌードを第一線で見てきた石川次郎、鈴木紀夫、元木昌彦の3氏が、日本のヌード写真集、グラビアをどう見てきたのかを語り合った。雑誌ヌード企画はいつ、どのようにして始まったのか?
石川:僕が平凡出版に入った1967(昭和42)年頃は、有名女優や人気タレントのヌード写真集なんてほとんどありませんでしたよ。配属された平凡パンチではヌードを載せていましたけど、多くが外国の通信社から買った、色気とはほど遠い清純で綺麗な外国人女性のヌード写真でしたね。
元木:今では信じられませんが、当時は現代やポストのような一般の週刊誌にヌードを載せる時代じゃなかったんです。
鈴木:私も1990年代になってヘアヌード写真集を10冊ぐらい手掛けましたけれど、その前は週刊宝石やFLASHでも、ヌードより、「処女探し」とか「オッパイ見せて」といった“お色気グラビア”が中心でした。
石川:ところが入社して数か月後に平凡パンチに新しい編集長が来て、「自前のヌードをやろう」と言い出したんです。最初は脱いでくれる人を探すのが大変で、セクシー路線の女優さんやピンク映画に出ている若手女優さんにお願いしていました。
撮る方も若手に、と加納典明氏に声を掛けたら、最初は「オレは、平凡パンチのような世の中に害毒を流す雑誌で仕事はしない」と断わられて(笑い)。その後たくさん撮ってもらいましたけどね。加納さんに限らず、当時のカメラマンはそういう意識だったんです。でも、何とか軌道に乗った。ライバル誌の週刊プレイボーイも篠山紀信さんを起用してヌードグラビアを始めた。
元木:そうやって、当時の2大若者向け雑誌が、一般の商業誌におけるヌード写真の分野を切り開いたんです。