しかしその「解釈」の一言に編集委員の一人は「憲法九条と同じように(笑)」と口を挟むのだ。憲法を批判する文脈では全くない。それこそ「論理国語」の必要性を感じもする。掲載された論考も保守派とおぼしき人は、文学の衰退を「3S政策」を引き合いに出したりスマホを呪詛するだけだ。これでは新井のような情報論と結びついた新しい保守に太刀打ちできない。
たった今、起きているのは明治期に言文一致体が成立したような根本的なことばの変化だ。明治の作家たちはその変化を把握し、新しい日本語を作ることに自ら参画したから「文学」者たり得た。しかし今、その変化に専門家たる文学者は気づかず、参加もせず、スマホを呪って済ませようとするから場当たり的な対症療法の新井を論破できない。何が起きているか「文学」が理解しようとしない以上、この変化は制御不能となって、ことばは壊れ、異質の記号に変わる。
そういう始まりの年だ。
※週刊ポスト2020年1月3・10日号