箱根駅伝の歴史の転換点となったのが、1987年に始まる全国中継だ。「正月の風物詩」として定着させた日本テレビ・箱根駅伝中継初代チーフプロデューサーの坂田信久氏が当時の中継にまつわる苦労や工夫を振り返る──。
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1987年の初中継が決まったのは前年の6月。ギリギリまで技術陣の多くが難色を示しました。最大の課題は、山中の移動中継車からの映像をどう伝えるか。
電波はその通り道に木の葉が1枚あるだけで遮られてしまう。中継車の屋根にある発信機を人力で動かし、上空のヘリ経由で電波を送ることにしましたが、悪天候だとヘリは飛ばない。
それに備え、事前にアンテナを背負って山を登り、中継基地用の場所も探しました。送信機を操るスタッフは「人間羅針盤」と呼ばれ、操作の練習を重ねた。
そうして実現した中継で忘れられないのが、1991年の2区での早稲田大・櫛部静二(現・城西大監督)の大ブレーキ。花田勝彦、武井隆次とともに“早大三羽ガラス”と呼ばれたが、1年で2区に抜擢されるも失速。トップから14位まで順位を落とし、フラフラの状態で襷をつないだ。