1月19日にスタートするNHK大河ドラマ『麒麟がくる』。これまでにNHK大河ドラマで登場した明智光秀は15人に上る。歴史作家の島崎晋氏が、その人物像の変遷について解説する。
* * *
NHK大河ドラマでもっとも視聴率を稼いできた作品は幕末か、戦国時代の終盤とされる。そのため明智光秀の出番も多く、1965年放送の『太閤記』を最初として、最近では2017年放送の『おんな城主 直虎』にいたるまで、過去58作のうち実に15作に登場している。
半世紀にわたり15作に登場するなか、光秀の描かれ方は一様ではなかった。全体としては、江戸時代に著わされた軍記物語を基本としながら、その時々に流行った学説や歴史観が反映されてきた。光秀の人物像も野心家から実直な人物へと変化を重ねている。
野心家としての光秀を描く際に欠かせないのが、本能寺の変の直前、連歌師の里村紹巴らを招き、京都の愛宕山で催した歌会の席で詠んだ次の一首である。
「ときは今 あめが下知る 五月哉」
従来、冒頭にある「とき」を明智氏の本来の姓とされる土岐と解釈して、全体では、「この五月、今こそ土岐氏出身である自分が天下に下知する時なのだ」と受け取り、光秀の決意表明とする俗説が踏襲されてきた。
土岐氏は斎藤道三に追われるまで、美濃国の守護職を務めてきた名族。尾張守護代の織田家よりも、土岐氏の支族である光秀のほうが天下人となるに相応しい。光秀は早くからそう考え、長いあいだ我慢に我慢を重ね、機会をうかがっていたというわけである。