今より食糧事情が悪かった時代でも、長生きをした人はいる。健康に気を遣っていたことで知られる徳川家康は73歳まで生きたが、豊臣五大老の一人だった宇喜多秀家は関ヶ原の戦いに敗れて八丈島へ流されたにもかかわらず84歳まで生きた。諏訪中央病院名誉院長の鎌田實医師が、備前宰相・秀家はなぜ長生きだったのかについて語る。
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歴史上の人物で、健康オタクといえば、徳川家康だ。ドラマでもよく、薬草を薬研でゴリゴリすりつぶすシーンが出てきたりする。元来、倹約家の家康は食に関してもぜいたくはせず、旬のものを食べるようにしていた。珍しくて高価な旬の走りのものは家臣に渡していたという。
注目すべきは、剣術や乗馬、鷹狩などで体をよく動かし、雉肉などを焼いて食べていたこと。70歳で鷹狩をしたという記録も残っている。高齢になっても適度に運動をして、タンパク質を摂っていたのだ。
家康は73歳で亡くなった。ほぼ同時代、家康よりも長生きしたのは宇喜多秀家だ。84歳まで生きた。秀吉政権下、五大老の一人だったが、関ケ原の戦いで家康に負けたため、八丈島に流された。
流人の生活は江戸のように恵まれたものではなく、秀家は雑穀や豆類を中心に食べたという。幸いだったのは、魚介類を食べることができたことだ。魚でタンパク質とオメガ3のよい油をとることができたはず。
皮肉なことに、江戸ではおいしい白米を食べることができたが、「江戸患い」が流行っていく。精米することでビタミンB1が不足し、脚気になる人が増えたのだ。徳川将軍のなかにも3人ほど、脚気に悩まされた人がいる。
秀家の正室は前田利家の娘・豪姫である。その縁があり、流人となった後も加賀前田氏から時々食糧援助を受けていた。ふだんは粗食だったが、ずっと粗食では84歳まで長生きできなかったのではないかと思う。