【著者に訊け】柳広司氏/『太平洋食堂』/小学館/1800円+税
大石誠之助、享年四十三。周囲の者たちから〈ドクトルさん〉あるいは〈ひげのドクトル〉と呼ばれ、親しまれていた彼は、なぜ罪に問われ、死ななければならなかったのか──。物語は、誠之助自らが厨房に立ち、人々に料理をふるまった食堂の開店日、明治37年10月1日に幕を開ける。〈皮肉とユーモアと反骨の傑士〉の生涯を、当時の時代状況と共に描く。
大石誠之助は1867年紀州・新宮生まれ。アメリカ・カナダへの留学経験を経て、故郷に戻って医院を開く。幸徳秋水、堺利彦、与謝野鉄幹らと親交し、治療代は貧乏人からはお金をとらない〈無請求主義〉。食堂では、今でいうこども食堂のようなこともやっていたらしい。そんな彼のあり方に○○主義と名前が付けられた瞬間、既に悲劇は始まっていたのかもしれない。
「誠之助を書こうと思った直接のきっかけは、2018年1月に新宮市議会が彼を名誉市民とすることを決議した記事を新聞で読んだことです。デビュー以来、この時代のことを書けないかと色々調べて準備をしていたのですが、何を軸に書けばいいのかがピンとこなくて書きあぐねていました。そこに飛び込んできた名誉市民の一報で全部が繋がったというか、例えるなら、過冷却状態のコップの水に氷を入れたら全体が一気に固まるような、そんな感じがしました」
大政奉還の年に生まれた誠之助は夏目漱石や正岡子規らと同い年。22歳で渡米し、開業後もインドまで伝染病の研究に赴くなど、〈何でも自分でやってみないと気が済まない性分〉だ。36歳の時には、病院の向かいに甥で後に文化学院創設者となる西村伊作の絵を看板に掲げた西洋風の建物を自ら建てる。その食堂を彼は「太平洋食堂(パシフィック・リフレッシュメント・ルーム)」と呼び、当時珍しい洋食を提供する傍ら、文化交流や教育の場としても広く開放した。
ちなみに彼の口癖は、〈(自分が)楽しくないと人はついてこない〉。喩え話を交えて難しいこともわかりやすく語る誠之助の講演は常に好評で、彼の周りには幼い子供から歴史上の人物まで、自然と人が集まった。