【書評】『五感にひびく日本語』/中村明・著/青土社/2200円+税
【評者】井上章一(国際日本文化研究センター教授)
日本語には、身体のパーツで心模様をあらわす慣用句が、たくさんある。たとえば、もう聞きあきたという想いを、日本人は「耳にタコができた」と、言いならわす。じっさいに、耳の皮膚がかたくなって、ふくらみはしなくても。こういう言いまわしを不思議がる日本語学習者は、少なくない。「臍で茶をわかす」というイディオムは、どうしてできたのか。そんな質問も彼らからは、ままうける。
悪事とかかわることは、「手をよごす」と表現される。しかし、悪い世界からぬけだすことは、「足をあらう」という言いまわしになりやすい。「手をよごして」悪くなったのに、なぜ良くなる時は「足をあらう」のか。「よごす」部位と「あらう」部位が、くいちがっている。それは、いったいどういうことなのかと、しばしば彼らは問いただす。
まだある。悪の途にはいった人は、自身の精神もけがしているはずである。しかし、「手をよごす」と言われれば、精神のほうは無垢ででもあるかのように、ひびく。責任は「手」にしかないのか。当人の主体性は、どうなっているんだ。「足をあらう」のも同じで、精神がおきざりにされているのではないか。そういぶかしがる留学生は多い。