プロ野球の南海やヤクルトなどの監督を歴任した野村克也さんが2月11日、虚血性心不全で亡くなった。84才だった。
野村さんは昭和10年、日本海に面した京都府竹野郡網野町(現京丹後市)で生まれた。父親を早くに亡くし、看護師の母の女手一つで育てられた。母親は病弱で、野村少年は小学生の時から新聞配達などで、一家の家計を支えていた。
野球を始めたのは中学2年生の時だ。すぐにキャッチャーとして頭角を現し、京都ではその名を知られるように。一度は断念した高校進学も、大学進学を取りやめた兄の援助もあって実現する。そこでも野球部に入るが、所詮は弱小チーム。しかし、裕福な暮らしに憧れていた野村さんはプロになりたくて、19才になる年に、南海ホークスにテスト入団する。契約金はゼロ円だった。
1年目の終わりに戦力外通告を受けるものの、交渉で粘って残留。どうにかプロにしがみつき、3年目に努力を実らせ、正捕手の座をつかみ取った。以降、本塁打王や戦後初の三冠王を獲得し、パ・リーグの顔ともいえる存在に。
しかし、当時は巨人・大鵬・卵焼きの時代。人気はセ・リーグ、それも巨人の長嶋茂雄や王貞治にかなわなかった。野村さんが、長嶋や王を「ひまわり」に、そして自らをひっそりと花開く「月見草」にたとえたのはこの頃だった。
野球ファン以外への知名度は、監督になってからの方が上がったかもしれない。流行語にもなったID野球でヤクルトの監督として日本一を叶え、阪神時代は戦力をそろえ、楽天ではメジャーリーガーとなった田中将大投手を育てた。データに基づく采配と、独特のボヤキ節のアンバランスが、野村さんらしさでもあった。
そうした野球漬けの人生を支えたのが、2017年に亡くなった沙知代夫人(享年85)だった。
「自分は田舎者。世渡りもできない。彼女は、女社長で海外のことも詳しい。スタイルがよくてきれいで、内面も太陽のように明るくサバサバしていた。本当にすごくよく見えたんだな(笑い)」
とは、当時を振り返っての野村さん本人の言葉だ。日が落ちてから咲く月見草は、見たことのない太陽の魅力にあらがえなかった。
すでに2児の母だった沙知代夫人と結婚したのは1978年。ダブル不倫の末の再婚だった。沙知代夫人は結婚前から南海のチーム運営に口を出すなど、トラブルのもとにも。関係者から「野球を選ぶのか、女を選ぶのか」と迫られた野村さんが「女を選ぶ」と答えたエピソードはあまりにも有名だ。
野村さんはこの件で、選手と兼任していた南海監督の座を追われている。