〈春のセンバツ高校野球が無観客になるという残念な発表。(中略)いや、残念じゃないよ。ダメな時ほどダメじゃない〉
3月4日、日本高校野球連盟は新型コロナウイルスの感染拡大を受け、19日開幕の『第92回選抜高校野球大会』の無観客試合を検討していると発表した。開催の可否については、11日に正式決定される予定だ。報道を受け、萩本欽一(78)は萩本企画のホームページで冒頭のメッセージを綴り、こう続けた。
〈みんな甲子園へ行けるよ。みんなが出かけるんじゃないよ。みんなの声が、甲子園に行くんだよ〉
一体、どういう意味なのか。
萩本欽一の芸能生活において、野球とは切っても切り離せない縁がある。1966年結成の坂上二郎とのコンビ『コント55号』は、巨人・王貞治が1964年に樹立したシーズン本塁打最多記録(当時)の55本にちなんで名付けられた。
しかし、野球というコンテンツは萩本にとって強敵だった。『ぴったし カン・カン』(TBS系)などで視聴率を競い、ナイター中継延長で自身の冠番組が遅れることもあった。それでも、萩本は決して野球を敵対視しなかった。
中日が勝つか引き分けで優勝、負ければ巨人の2連覇となる1982年10月18日(月曜)、フジテレビは大洋対中日(横浜スタジアム)の生中継を決めた。萩本は、日枝久編成局長(当時)から21時開始の『欽ドン!良い子悪い子普通の子』を通常の録画撮りから生放送への変更を打診され、快諾した。
大洋対中日戦が続いていた21時、萩本が画面に登場。共演の山口良一らに「どうする?」と聞くと、「野球を見たいです」と返答され、画面はナイター中継に戻った。結局、『欽ドン!』の放送は20分間に留まったが、名古屋地区で『大洋対中日戦』58.1%、『欽ドン!』55.7%(ともにビデオリサーチ調べ)と大成功を収めた。萩本は、その時の心境をこう語っている。