プロ野球の南海やヤクルトで監督を務めた野村克也氏が、2月11日に死去してから1か月が経った。数多くの追悼番組が放送され、著書の売上も増加するなど、生前の功績に改めて注目が集まっている。中でも、頻繁に取り上げられる事例のひとつが、南海監督時代に江夏豊を抑えに転向させ、日本のプロ野球に「先発・中継ぎ・抑え」という分業制を定着させた点だ。
野村監督は1976年、阪神から南海に移籍してきた江夏に「革命を起こしてみないか」という誘い文句で、先発からリリーフへの転向を決断させた。江夏は翌年に初の最優秀救援投手に輝き、移籍先の広島、日本ハムでも同賞を獲得し、チームを優勝に導いた。阪神時代、先発完投を信条にした大投手・江夏が抑えに回って、“優勝請負人”と呼ばれる活躍をしたことで、プロ野球界にリリーフを格下に見る風潮が徐々に消えていった。
野村氏は著書『プロ野球重大事件 誰も知らない”あの真相”』(角川書店、2012年発行)で、“8時半の男”と呼ばれた巨人・宮田征典を最初の抑え専門職ではないかと推測した後、こう語っている。
〈宮田の場合は(中略)セーブの記録がなかったこともあって、ストッパーといえばやはり江夏豊というイメージが強いのではないかと思われる。しかし、じつは「革命」を起こした男は、それ以前にいたのである。それも南海に……〉
実は、江夏より先にストッパーとして名を馳せた投手がいたのだ。
1974年に初代セーブ王に輝いた佐藤道郎である。野村氏は選手兼任監督の1年目の1970年、新人の佐藤を抑えに抜擢。佐藤は55試合に登板し、リリーフが試合終了まで投げた場合に付く『交代完了』も47試合を記録。ともにリーグ最多だった。最終的に、2.05で最優秀防御率に輝き、新人王も受賞。その後も抑えとして活躍し、1973年には野村南海の優勝に大きく貢献している。