映画史・時代劇研究家の春日太一氏がつづった週刊ポスト連載『役者は言葉でできている』。今回は、中村梅雀が父・梅之助の当たり役である『伝七捕物帳』に主演したときについて語った言葉をお届けする。
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中村梅雀は二〇〇七年、二十七年にわたり所属した劇団・前進座を退団、フリーの道を歩む。
「経済的にどうにもならなかったんです。舞台に使う化粧品やテレビに出るときの衣装は自前で、衣装代が払えない。
それなのに、年間に何千万稼ごうが劇団ではどこまで行っても上から三十二番目。給料は大学卒の初任給より安い。主役をやっても、通行人やってる先輩の方がはるかに給料がいい。僕は客寄せパンダ的になっていて、主役だけでなく演劇の合間に踊りをやったりしても、評価の対象にもならなかった。誰も『ありがたい』と思わない。『後輩だろ』って顔をしているんです。
それから後輩は後輩で『梅雀さんが外で稼いできてくれると、僕らは好きに芝居ができます』って。それもカチンときました。
人間関係も嫌、経済的にも嫌、演目も嫌。何も僕を救うものがない。父・梅之助は止めませんでした。『止めなきゃいけない立場だけど、気持ちは物凄く分かる。後押ししよう』って言ってくれたんです。
父もやめようと思ったことがあるそうです。でも、『もっとここで盗むべきものがある』と先輩に諭された。目標があったんですよ。翫右衛門がいましたから。でも、僕にはなかった。
劇団を出てから、責任が強くなりました。僕が失敗したらこのチームは食えなくなる、と。
劇団にいた頃は失敗しても、安いけど給料はもらえるという逃げ道がありました。その甘さに気づきましたね。それから、仲間のことが愛おしくなったんです。ワンカットにこんなに集中してくれる仲間がいる。劇団時代とは愛情が違います」