1970年の日本万国博覧会(通称:大阪万博)から50年。日本人に多大な影響と最高の思い出を残した大阪万博には、183日間で6421万人以上が訪れた。来場者の一人だったシンガーソングライターの嘉門タツオ(60)が、当時の思い出を振り返った。
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当時、僕は小学校6年生で、万博会場のあった吹田市の隣、茨木市に住んでいました。バスで10分、自転車で30分です。開催に向けて茨木も急速に変化しました。駅に快速が停まり、駅舎が木造から鉄筋に変わり、駅前の沼がバスターミナルになり、道が舗装され……。開幕日に自衛隊のブルーインパルスが空に「EXPO’70」の文字を描き、花火や風船が上がるのが見えた時には、日本の新たな幕開け的な高揚感を覚えました。
最初に行ったのは3月29日。動く外国人を生で見るのが初めてだったので、サインをもらっていたんですよ、ただの外国人から。そのサイン帳が残っていて、最初のページが3月29日なんです。行くのが当たり前という感覚で、友だちと、家族と、学校の遠足でと、計21回行きました。何度も行くうちに友だちが金網の破れている所を見つけ、そこからただで入ったことも2回。月の石で人気のアメリカ館の出口で中に向かって「お母さん!」と叫び、さも母親を探しに行くふりをして入った悪い友だちもいましたよ(笑い)。
外国人のサイン集めに飽きると、興味がスタンプを経てバッジに移りました。いつでも誰でももらえるパビリオンもあれば、その国のナショナルデーにしか配らないとか、VIPにしか渡さないところもあるとわかってきた。それで僕は、各パビリオンに「バッジをください」と手紙を出しました、自分の住所、名前も書いた返信用の封筒を入れて。50、60は出したんと違いますか。みんな友好的で、送ってくれるパビリオンも多かった。それも含め集めたのが68個。これは学校で第3位でした。