新型コロナウイルス感染拡大により、東京オリンピックの開催が1年程度延期することとなった。当然ながらパラリンピックもまた延期となる。
1964年の東京オリンピックの際も、パラリンピックは開催された。「国際身体障害者スポーツ大会」と呼ばれたその大会は、いまでは「第2回パラリンピック東京大会」として知られている。現行方式とは異なり、事故による脊髄損傷などで下半身麻痺となった車椅子の人を対象とする国際大会だった。この1964年のパラリンピックについて、『アナザー1964 パラリンピック序章』を上梓したノンフィクション作家・稲泉連氏が迫る。
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1964年のパラリンピックは、出場者や運営を支えた人々に、大きな刺激を与えた大会となった。会場で彼らが交流した車椅子の外国人選手たちの姿が、それまでの日本における「障害者像」とはあまりに異なっていたからである。
例えば、2人の日本人女性選手のうちの1人だった笹原千代乃氏は、「私なんかは日本人選手の中で、いちばんうつむいていたから、彼らの明るさが本当に不思議でねェ」と振り返る。
彼女がとりわけ興味を持ったのが、女性外国人選手たちの脚の美しさだった。脊髄損傷で車椅子の生活を送る人の脚は、どうしても痩せて細くなりがちだ。リハビリの概念が希薄だった当時は尚更そうだった。だが、オランダ人の女性選手たちの脚は太く、それがどうしても気になった彼女は、語学奉仕団の1人に通訳を頼んで話を聞いてみた。すると、ストッキングに綿を入れて綺麗に見せていると言うのである。
「彼女たちはそんなふうにおしゃれにも気を使っていてね。それに、聞けばみんな結婚していて、子供もいて、家にはプールがあって、自動車を運転していて…と次々に言うの。私、驚いちゃって」
療養所や労災病院の「入所者」や「患者」だった日本人選手は体格も華奢で、会場ではうつむきがちの者がほとんどだった。
一方で上半身が見事に鍛えられた外国人選手たちは、弁護士や教師、官僚や音楽家といった専門職であることも普通だった。
腕の力でクルリと車椅子を回転させる様子や、ポケットから煙草を取り出して火を付け、実に洒脱な雰囲気で談笑する彼らの立ち居振る舞いは、1960年代に生きる日本人のイメージする「障害者像」を大きく覆したのだった。