56年前に東京で開かれた「国際身体障害者スポーツ大会」。いまでは「第2回パラリンピック東京大会」として知られるその大会は、1964年11月8日、祭りの後の秋晴れの東京で、それはひっそりと開幕した。現行方式とは異なり、事故による脊髄損傷などで下半身麻痺となった車椅子の人を対象とする国際大会だった。大会には世界22か国から369人が出場し、うち日本人選手は53人。
そんな選手や関係者たちと交流され、その後も障がい者スポーツの発展を見守った美智子妃殿下(現・上皇后陛下)の姿について、『アナザー1964 パラリンピック序章』を上梓したノンフィクション作家・稲泉連氏が綴る。
◆選手たちと「人間的なつながり」を持ち続けた
わずか5日間という開催期間の中で、彼らは全身全霊で様々なことを吸収した。その中で海外の障害者の暮らしを知り、日本と欧米の障害者に対する社会の捉え方や環境の違いに気づいていった。
1964年のパラリンピックの最も大きな意義は、そうした経験をした出場選手や語学奉仕団、医療関係者の中から、日本の障害者をめぐる環境を変革しようとする人々が生まれていったことだろう。
例えば、日本の選手団長を務めた医師・中村裕は大会の翌年、日本で初めて障害者の就労支援を行う社会福祉法人「太陽の家」を設立。語学奉仕団からも数々の人材が育ち、日本の社会福祉政策に大きな影響を与えた人物もいる。また、パラリンピック後、選手たちの多くも仕事を持つようになり、それぞれの形で社会での自立を目指し始めた。
そんななか、パラリンピックの開催を支えた上皇上皇后両陛下もまた、そうした社会変革の「当事者」になっていったといえる。
1996年から2007年にかけて侍従長を務めた渡邉允氏の自著『天皇家の執事』によればパラリンピック閉会後、関係者を東宮御所に招いた皇太子(当時)は、《このような大会を国内でも毎年行なってもらいたいと思いますし、皆さまもこれから身体障害者の福祉向上のためさらにいっそう努力されることを希望します》と話した。