韓国との外交の中で解決の糸口が見えない徴用工問題において、元徴用工が日本メディアの取材に応えることはほぼない。そのなかで、1人の元徴用工が語った言葉は、日韓に横たわるこの問題の複雑さを露わにする。『韓国人、韓国を叱る』(小学館新書)を上梓したジャーナリストの赤石晋一郎氏がレポートする。
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元徴用工である李基賛氏の取材は、彼が入院している韓国の病院で行った。私が取材を始めると、メディアでも騒ぎになっている徴用工というテーマもあってか、他の患者もみな彼の話に聞き入っていたのが印象的だった。
「1943年、15歳のときに徴用令状が来ました。同じ部落からは13人が徴用されました。 日本のどこに行くかは知りませんでしたが、炭鉱に行くと聞かされました。日本行きの連絡船で下関に行きました。徴用工の人が400~500人くらい乗っていたと記憶しています。
門司を経て、長崎県佐世保市の三菱炭鉱へ行きました。私は石炭の区分けの仕事をしてました。朝7時から夜8時まで、2交代で働いていました。24時間フル稼働していた。一番方として朝から1週間働いて、次の週は夜から朝まで二番方として1週間働くという交代制でした。休日はありませんでした。炭鉱の中を自分で掘って、石炭を運び出す作業が大変でした。とにかく掘った石炭を並べていくんだけど、ブロック状に積み上げるのが大変でした。
食事は玄米が入っている麦のご飯でした。おかずはくず野菜スープかタクアン一切れ。それだけの食事でした」
どこの工場も食糧事情は厳しかったようだ。私が元徴用工みなに聞いている、「差別はありましたか?」という質問に、彼はこう答えた。