1987年、関根はヤクルトの監督に就任すると、有望株の広沢克己をこう勇気づけた。
〈「お前、力はある。がんばれよ」と言ったとき、広沢は目を生き生きとさせた。もとより、私は、沢村さんとは比べようもない平凡な人間だが、このときの広沢の表情、私はそこに、少年時代の私自身の姿を見る思いがした〉(前掲『一勝二敗の勝者論』)
田代も広沢も関根監督時代にシーズン100三振を記録したが、通算で田代は278本、広沢は306本ものアーチをかけ、ファンを魅了した。沢村栄治や藤田省三から感じ取った“上に立つ人間の在り方”を実践し、多くの名選手を輩出した関根はこう言っている。
〈「あいつはおれが育てた」と言う監督やコーチがいるでしょ。そんなに簡単に育てることはできないよ。ちゃんとした選手は、放っておいても自分で練習して育つの〉(平成26年7月17日 サンケイスポーツ)
〈午前3時頃に戻ってきた衣笠をつかまえて、朝まで素振りさせたという話があるって? もう忘れちゃったよ。僕は現役時代、「朝帰りの潤ちゃん」で有名だったのにねえ(笑)。一生懸命だったんだね、お互いね〉(平成26年7月12日 サンケイスポーツ)
沢村栄治や藤田省三のスピリットを関根が受け継いだように、関根に導かれた田代富雄が、多村仁志、金城龍彦、村田修一らの好打者をを育て上げるなど“名伯楽”と呼ばれ、その教えを後世に伝えている。亡くなっても、“粋な男”関根潤三の魂はこれからも野球界で生き続ける。
■文/岡野誠:ライター。本人や関係者への取材、膨大な資料などから解き明かした著書『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018』(青弓社)は『本の雑誌』2018年ノンフィクション部門ベスト10入り。巻末資料では田原の1982年、1988年の全出演番組(計534本)を視聴率やテレビ欄の文言などと掲載。『ザ・ベストテン』の緻密なデータもある。