放送作家、タレント、演芸評論家で立川流の「立川藤志楼」として高座にもあがる高田文夫氏が『週刊ポスト』で連載するエッセイ「笑刊ポスト」。今回は、新型コロナウイルスに感染し、急逝した志村けんさん(享年70)の思い出についてお送りする。
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今から50年前。私が21歳、志村けんが20歳の時、ふたりはまだ“なにもの”でもなかった。私は大学生からクレージーキャッツ、ドリフターズの日劇の演出家だった塚田茂の弟子のようなものに。志村は高校卒業間近にいかりや長介に弟子入りし、業界言葉で言うボーヤ(付き人)をずっと続けていた。
すでに人気を博していた『8時だョ!全員集合』のTBS、伝説の稽古場で最初に志村を見た。なにしろリーダーいかりやは“笑い”の求道者。仕事にきびしく、30人くらいの会議室も昼から夜中まで連日もの音ひとつ立てられない“戒厳令の夜”だった。いつも一番隅っこにいた私は一服しにそっとドアを開け表へ。そこには両腕に冷たい水を入れたヤカンを下げた志村、すわ親治ら若手がいる。
志村が小声で「なにがいかりやだバカヤロー。いつかやってやるからな」とファイティングポーズを見せた。部屋の中から「オーイ」、すかさず志村「ハイハイ」と調子良くヤカンを持っていく。部屋の中では荒井注が鼻毛を抜いてるか、むずかしい本を読んでいる。高木ブーはいつも寝ている。
志村は根っから音楽が好きでミュージシャンなのである。体の中にいつもロックとソウルが流れている。だからジャズ喫茶のドリフが好きなのだ。あとで分かった事だが、私も志村もあのビートルズ武道館公演を同じ日の同じ回に見ている。この日はドリフは前座ではなかったというのが笑える。追悼の記事など読むと“芸人ひと筋”など分かった風なことを書いているが、志村けんは「芸人」ではなく「ミュージシャン」であり「コメディアン」なのだ。「ヒゲダンス」のあの動きはグルーチョ・マルクスだし「イッチョメイッチョメ」も「ワーォ」なのだ。