映画史・時代劇研究家の春日太一氏がつづった週刊ポスト連載『役者は言葉でできている』。今回は、子供の頃から喜劇役者になりたかった小松政夫が、トップセールスマンからいきなり、植木等の運転手になったいきさつについて語った言葉をお届けする。
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小松政夫は一九四二年、博多で生まれる。子供の頃からコメディアンとしての才を発揮した。
「うちの前が焼け跡で、そこにテキヤさんが来ていました。バナナの叩き売りとか、蛇の薬売りとか、入れかわり立ちかわり。親父はお菓子屋をやっていたので、みんなそこでラムネを飲んだりして。
それが面白くて毎日見ていました。暗記して学校でやったりしているうちに、『まさ坊演芸会』というのを始めたんです。我が家の四階が倉庫だったので、そこを片付けて、自分でガリ版を切って入場券をこさえて。
バナナの叩き売りは独特でね。『さあ、買うた、買うた』『はいきた八百円。今日のお客は貧乏人。こんな奴には売らないよ。さあしもうた、しもうた。よしもう一回。七百。ないか。もういい、もういい。じゃあ、思い切って百!』というと『はい!』と手が挙がる。すると『いいの? 百万と言おうと思ったんだよ』と。そういう掴みの口上があったんです。
通信簿の学校から家庭への通信欄には『お宅の子供は将来、喜劇役者になりたいという。思想が不健全だからちゃんと教育するように』と書いてあったそうですから、子供の頃から役者、コメディアンになりたかったんでしょうね。目立つことは大概やっていました」
高校を卒業後に上京、さまざまな職業を転々としている。