【書評】『南方熊楠と日本文学』/伊藤慎吾・著/勉誠出版/7000円+税
【評者】大塚英志(まんが原作者)
柳田國男にせよ折口信夫にせよ、この国の黎明期の民俗学者たちの活動領域は文学と重複する。柳田國男の学問は田山花袋らとの交流の中で強烈な近代的自我を持った青年がその対象を社会に向けることで立ち上がったもう一つの自然主義である。
折口の「民俗学」と多くの人々が信じている論考は「国文学」として構築され、同時に彼は貴種流離譚を論じつつ自らにそれをなぞらえるファミリーロマンス的短歌を綴った。彼らの学問はかくも近代文学と不可分であった。だからその関心は自分自身が帰属する文学の起源に否応なくロマン主義的に向けられていった。
しかしもう一人、南方と「文学」の問題は不問であった。粘菌などの自然科学的な知や博覧強記がパブリックイメージとして流布し、文学と結びつけられて論じられることは少なかった。本書で著者が問題とするのは南方の「日本文学」への言及の仕方だが、そこには「歴史的な側面がほとんど顧みられない」、「反歴史的叙述」と言っていいほどに「通時的視点」をとらない、と指摘する。つまり南方は文学の「起源」に思いを馳せないのである。
従って国文学の資料を読む時でも、折口なら日本文学の系譜に縷縷位置付けていくのに対し、南方は「要素単位に分解」して通時性を奪い「比較」の資料とする。それは、柳田の民俗事象の変遷を追う手法に一見近い。古典的な地理学的方法を思い浮かべもする。