2020年東京五輪は、新型コロナウイルスの世界的流行によって1年延期が決まった。今から40年前、1980年のモスクワ五輪の代表選手は出場の機会そのものを突然、奪われた。ノンフィクションライターの柳川悠二氏が、五輪金を目指す道からプロレスラーへと転身したモスクワ五輪レスリング代表だった谷津嘉章に、40年前の体験と、2020東京五輪への思いについて聞いた。
* * *
モスクワ五輪のレスリング100kg級代表だった谷津嘉章(当時の所属は足利工業大研究員)は、今年3月29日、栃木県足利市を聖火ランナーとして走る予定だった。スタート地点は、国内最古の教育機関として知られる足利学校前。わずか200mとはいえ、谷津にとって、大きな負担を伴う。昨年6月、右足親指にできた血豆から細菌が入り、壊死が進んだことで膝から下を切断したのだ。
「生きる目標を見失っていた時、聖火ランナーの一般募集があった。それに応募し、決まってもいないのに聖火ランナーをやるつもりで、トレーニングしました。速く走る必要はないけれど、障がい者として綺麗なフォームで元気なところを見てもらいたかった。左手から右手、右手から左手にトーチを持ち替え、笑顔を振りまく練習を密かにしていました(笑)。モスクワから続く五輪の物語も、聖火ランナーでピリオドを打つつもりだったんだけど……」
8位に終わった1976年モントリオールからモスクワまでの4年間、谷津は所属大学から多額の援助を受け、世界を転戦して武者修行に励んだ。重量級の強者が国内には少なく、モスクワで金メダルを獲るには、海外に足を延ばす必要があった。