新型コロナウイルスの影響による史上初のオールスター中止にプロ野球ファンは落胆している。特に1960~1970年代のプロ野球を知るオールドファンにとっては、1年に1度の“夢の球宴”の記憶は忘れがたい。交流戦もWBCもなかったあの頃、セ・リーグとパ・リーグが真剣勝負でぶつかり合うことも、ライバル球団の選手とチームメートになることも貴重だったからだ。
阪急ブレーブスなどで活躍し、オールスター戦に14回出場した米田哲也氏(82。通算350勝)は、「パの選手にとって、オールスターは人気で勝るセを倒して名をあげる舞台だった」と振り返る。
「オールスターでは他球団、特にセの選手の給料の話が自然と耳に入ってくる。それが一番イヤだった。ボクがいた1970年頃の阪急なんか、どんなに好成績を残して年俸アップを訴えても、契約交渉では“前例がないからダメ”の一言で却下でした(苦笑)。
パでは西鉄や南海が高いほうだったけど、セとは雲泥の差です。阪神でサードを守っていた三宅(秀史)さんはボクの4歳上だけど、年俸を聞いて唖然とした。その頃すでに100勝していたボクより、全然多くもらってたから。そんな“恨み”があるから、パの連中が張り切るわけですよ」