1971年のオールスター戦で9者連続奪三振、2年後の中日戦では延長11回に自らのサヨナラホームランでノーヒットノーラン達成し、通算206勝、193セーブを挙げた球史に残る大投手・江夏豊がユニフォームを脱いでから、今年で35年になる。
1966年の第1次ドラフトで阪神に入団した江夏は、王貞治や長嶋茂雄を擁するV9時代の巨人に立ち向かい、2年目の1968年には401奪三振という今も破られていない年間記録を樹立。阪神在籍9年間で159勝、防御率 2.42という驚異的な数字を残した。
先発完投にこだわっていた江夏は南海移籍2年目の1977年、野村克也選手兼任監督の勧めで抑えに転向する。その後も広島、日本ハムで抑えの切り札としてチームの優勝に貢献し、史上初の両リーグMVPを獲得して“優勝請負人”と呼ばれ、3球団で最優秀救援投手に輝いた。
35歳の1983年までに809試合に登板していた江夏は当時、前人未到の1000試合登板を目標に掲げていた。同年51試合に投げて、34セーブ、防御率2.33を記録しており、当時の最多である米田哲也の949登板を抜く可能性はあった(現在の記録は中日・岩瀬仁紀の1002登板。2018年引退)。
その年のオフ、江夏に人生の岐路が訪れた。日本ハムの大沢啓二監督が退任する際、一緒に日本ハムから去ることを提案されたのだ。球団常務になる大沢氏が、翌年から指揮を執る植村義信監督が江夏を扱いづらいだろうと判断したという説もある。球界渡り鳥の江夏は、大沢に行きたくない球団を伝えた。
〈阪神、広島、巨人、西武、この4つは行きたくなかった。セならヤクルト、パなら近鉄という願望があった。強いチームを倒し、弱いチームを何とかしたいというロマンやね。大沢さんは「わかった」と言いながら、結局、決まったのは行きたくない球団と伝えておいた西武(笑)〉(江夏豊、岡田彰布共著『なぜ阪神は勝てないのか?』・角川書店・2009年9月発行)