今夏、富士山は史上初めて閉山になる。山頂に至る4本の登山道すべてが閉鎖され、登ることはできない。
だが、山麓には、世界文化遺産の構成資産に登録されている9つの「浅間神社」(人穴浅間神社は境内の人穴富士講遺跡が登録)などが点在し、富士山信仰の歴史の痕跡をたどることができる。
古くから霊山と崇められてきた富士山は、かつては人々が近づくことができない聖地だった。麓から富士山を仰ぎ見て崇拝する「遥拝」という形から信仰が始まったとされる。
全国に1300余社ある浅間神社の総本宮「富士山本宮浅間大社」と「山宮浅間神社」(ともに富士宮市)は、紀元前27年に富士山の神である浅間大神を祀ったことを起源とする。
山宮浅間神社には本殿や拝殿はなく、富士山を望む遥拝所が設けられているのみ。山体を直接拝む古代からの富士山祭祀の形をとどめている。同神社から、大同元(806)年に坂上田村麿が浅間大神を遷座したのが富士山本宮浅間大社。富士山8合目以上の土地は同大社の境内地であり、富士山頂上には奥宮が鎮座する。
「浅間」は火山を表わす言葉とされる。噴火を繰り返す富士山は畏敬の念を抱く存在だった一方、平安時代末期に噴火活動が沈静化してくると、山岳修行、登拝が盛んに。平安末期に富士山の登頂に成功したと史実に残る末代上人は、村山の地で富士修験の礎を築いた。村山浅間神社(当時・興法寺、富士宮市)境内には修験者が使った護摩壇などが現存する。
庶民の富士登山が盛んになったのは、「富士講」が大流行した江戸時代。先達に率いられ、富士講の講員が山頂を目指した。江戸から入山しやすい「北口本宮冨士浅間神社」(富士吉田市)も栄えた。浅間神社の多くには、講員らが建立した登拝記念の碑塔も多く立ち並ぶ。いつの時代も、日本最高峰の偉容は見る者の心を躍らせ、憧憬の念を抱かせただろう。