「これは下手を打つわけにいかないと、言葉が出なくなるほど緊張してしまった。大失敗です。師匠に迷惑をかけてしもた、もうおしまいやという気持ちで、情けなくって、みじめで、その晩、師匠に『辞めさせてもらいます』と伝えようとしました」
涙を流しながら言葉を絞り出そうとする弟子を、松鶴さんは制止した。
「顔を上げると、師匠も私を見ながら泣いていたんです。何か言おうとする私に、師匠は首を振って、そして何度もうなずきました。あの松鶴が、自分のために泣いてくれている。『このまま離れてたまるか』と、私の中の思いが変わりました」
松鶴さんが“来る者は拒まず”で弟子を受け入れてきたことには、理由があった。父である5代目松鶴から受け継いだ「遺言」だ。
「戦時下にあった5代目の時代は、噺家が絶滅寸前でした。息子を噺家にした5代目は、『噺家を増やせ』との遺言を残しました。その遺言を胸に、師匠は全身で弟子にぶつかって、落語家を増やし、個性を増やすことに全力を尽くしました」
上方落語復興への功績を認められ、松鶴さんは1981年、上方落語界で初の紫綬褒章を受章した。
※女性セブン2020年7月9日号