累計2000万部以上の部数を誇る小説家でありながら、SNSなどでの過激な発言で注目を集める百田尚樹氏。学生時代まで遡って取材すると、百田氏が「語ってこなかった過去」が明らかになった──百田氏を5時間半以上にわたって取材したノンフィクションライター・石戸諭氏がレポートする(文中敬称略)。
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関西テレビ界を代表する名物プロデューサーで、『探偵!ナイトスクープ』などの人気番組を手がけた朝日放送(ABC)の松本修は、百田と約40年にわたる親交がある人物だ。私が近著『ルポ 百田尚樹現象 愛国ポピュリズムの現在地』の取材でインタビューすると、松本は学生時代の百田について忘れられないエピソードを教えてくれた。
百田には、1980年当時から小説への憧れがあった。実際に1980年には講談社の文芸誌「群像」の新人文学賞に作品を応募し、1次選考を通過している。朝日放送の近くにあった「ホテルプラザ」のコーヒーショップで、松本は百田の応募作「古本屋」を読んでいる。
作品の欠点をいくつか指摘すると、激昂したという。しかし、松本は意に介さずこう思っていた。
「小説の才能は間違いなくある。ずっと書き続けたほうがいい」
百田が応募した1980年の受賞作は長谷川卓の「昼と夜」だったが、1次予選通過者として「群像」には、実際に「百田尚樹」の名前と作品名が掲載されている。小説部門の応募総数は1288篇であり、当時の最終選考委員は吉行淳之介、島尾敏雄、丸谷才一といった面々が名を連ねていた。
当時の群像新人文学賞は、綺羅星の如き才能を生み出した文学界の一大拠点だった。1976年に村上龍が受賞作「限りなく透明に近いブルー」で文壇に衝撃を与え、百田が応募する前年1979年の受賞作は、村上春樹「風の歌を聴け」である。
1981年には笙野頼子が「極楽」で受賞し、同年の長編小説部門は高橋源一郎が「さようなら、ギャングたち」でその名を刻んでいる。ちなみに1980年の評論部門には、法政大学でも教鞭を執った文芸批評家の川村湊、推理小説評論で名高い野崎六助の名前があった。