7月5日に投開票された東京都知事選は、小池百合子氏の圧勝で幕を閉じた。学歴詐称疑惑が再燃するなどの逆風もあったなか、前回都知事選に引き続き多くの票を獲得できたのはなぜか。ノンフィクションライターの石戸諭氏が「ポピュリズム」という観点から読み解く(文中敬称略)。
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たった4年前の選挙で掲げた公約の多くが未達成のまま、小池百合子が多くの支持を集めたのはなぜか? 私には、この結果が「ポピュリズムの時代」を象徴する現象に思えてならない。
ポピュリズムとは何か。この問いを巡る学者たちの論争は続いてはいるが、オランダの政治学者カス・ミュデらは、ポピュリズムをこう定義する。
「社会が究極的に『汚れなき人民』対『腐敗したエリート』という敵対する二つの同質的な陣営に分かれると考え、政治とは人民の一般意志の表現であるべきだと論じる、中心の薄弱なイデオロギー」(『ポピュリズム デモクラシーの友と敵』2018年)
重要なのは、社会が「敵対する二つの同質的な陣営に分かれる」、すなわち「敵」を設定したうえで、自らは「人民の一般意志」の代弁者として振る舞うことだ。
現在の日本で、この定義に当てはまる典型的なポピュリストは、新型コロナ対策において「夜の街」「パチンコ店」などを「敵」に設定する小池だ。私が、近著『ルポ百田尚樹現象 愛国ポピュリズムの現在地』の中で取材した作家・百田尚樹もリベラルメディアを巨大な「敵」「権威」として、「反権威主義」を原動力に変えてきた。
彼らの言葉の特徴は、自覚的なのか無自覚かを問わず、常に明確なターゲットを設定し、攻撃することにある。多くの人に「私が思っていたことを代弁してくれた」「よくぞ言いにくいことを言ってくれた」と思わせているところがポイントだ。
私は同書の中で、こうしたポピュリズムの時代の処方箋として、民俗学者の柳田國男の指摘を参照した。柳田は終戦直後の文章や対談で、次のように指摘している。
「あの戦時下の挙国一致をもって、ことごとく言論抑圧の結果と考えるのは事実に反している。利害に動かされやすい社会人だけでなく、純情で死をも辞さなかった若者たちまで、口をそろえて一種の言葉だけをとなえつづけていたのは、強いられたのでも、欺かれたのでもない。これ以外の考え方、言い方を修練する機会を与えられていなかったからだ。こういう状態が、これからも続くならば、どんな不幸な挙国一致がこれからも現れてこないものでもない」(野原一夫『編集者三十年』より)