キャラクターや性別、年齢などの類型にあわせてドラマやマンガなどで使用される話し言葉を「役割語」を呼ぶ。翻訳文学にもたびたび役割語が使用されているが、そこに差別意識はないのか。評論家の呉智英氏が、『風と共に去りぬ』で黒人奴隷の話し言葉として使用されている役割語に潜む意識について考察する。
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五月末アメリカで偽札使用容疑の黒人男性が拘束される際、過剰な制圧方法によって死亡した。既に手錠がかけられていたにもかかわらず、警察官によって地面に転がされ頸部を膝で圧迫された結果死んだのである。この黒人男性は窃盗や強盗の前科があるとはいうものの、これが白人男性であればこのように過剰な制圧はされなかっただろう。
日本でも最近の事件・事故に関して“上級国民”には警察の扱いが甘いという声が出ている。これが本当かどうかはともかく、アメリカでは黒人が“下級国民”として警察に苛酷な扱いを受けている。黒人差別の現実である。
今回の事件を機に全米で黒人差別への抗議運動が起こり、一部では暴動・略奪まで発生している。こうした「運動の広がり」は、さらに隣接分野にも飛び火した。
六月二十六日付朝日新聞は「『風と共に去りぬ』配信停止 時代の風」と題して、この映画に批判が起き「解説動画付きで」配信するようになったことを報じている。「奴隷制を美化 黒人死亡事件で差別抗議」というわけだ。
この飛び火に、さらにもう少し油を注いでみようか。金水敏(きんすいさとし)という国語学者がいる。
「役割語(やくわりご)」という概念の提唱者で、関連する著作も多い。役割語とは、人物の職業・所属などを象徴する言葉使いで、ほとんどは架空のものであるが、ドラマやマンガなどに頻繁に登場する。例えば、博士は「わしは博士じゃ」などと言う。金水は講演会などで、僕は国語学で博士号を取ってますが、「わしは博士じゃ」などと言ったことは一度もない、と話す。確かにそうだ。こういう言葉は、人物の役割を表現するために作られた。