昭和11(1936)年2月26日に帝都東京で起きた「二・二六事件」――。「反乱軍」を率いた青年将校らはその後死刑判決を受け、同年7月12日、陸軍刑務所内で処刑された。命日にあたる今年7月12日、青年将校らが眠る麻布・賢崇寺では、事件で殺害された犠牲者の冥福を祈り、処刑された青年将校らを悼む85回忌法要が営まれた。
二・二六事件当時、1500人近い陸軍将兵からなる「反乱軍」は、4日間にわたって赤坂・三宅坂一帯を占拠した。しかし、速やかな原隊復帰を命じる昭和天皇の「奉勅命令」が出され、各部隊ともに帰順するに至る。
閏日(うるうび)の2月29日土曜日(奇しくも閏年の今年と同じ曜日のめぐり合わせ)、部隊を率いていた青年将校らは、建設中の国会議事堂の前にあった陸相官邸に集められた。そして、自決した野中四郎、河野寿両大尉らを除く全員が渋谷(宇田川町)にあった陸軍刑務所に護送・収容された。その後、将校らに対する処罰は、短期間に国民の目の届かないところで決められた。
翌3月1日には緊急勅令が出され、3月4日に東京陸軍軍法会議が特設される。しかし、当初から弁護人は付けられず、将校らの発言も制限され、一審制で上告も許されなかった。のちに「暗黒裁判」とも評された審理は非公開で、わずか1か月半で結審となり、事件から約4か月後の7月5日には死刑判決が言い渡された。新聞報道は翌々日で、それから5日後の7月12日日曜日、陸軍刑務所内で刑が執行されたのだった。
これに先立つ同種のテロ事件――昭和7(1932)年の「血盟団事件」や「五・一五事件」、昭和10年の「相沢事件」では、裁判も公開され、新聞報道もなされていた。たとえば、犬養毅総理大臣を暗殺した五・一五事件の裁判では、首謀した海軍将校らに対して最高で「禁固15年」の判決が言い渡されたが、それは事件から約1年半後のことだった。また、法廷での彼らの陳述はたびたび新聞で報じられたため、多くの国民が、青年将校らには私心がなく、悪政の元凶である政党や財閥、特権階級を打破し困窮する農民や労働者を救おうと意図していたと知ることになり、減刑を嘆願する動きすらあったという。