1979年に『金八先生』(TBS系)で一気にブレークし、映画のヒット作やヒット曲を連発。わずか3年という活動期間で解散コンサートを行ったにもかかわらず、昭和のアイドルといえば真っ先に名前が挙がるのが『たのきんトリオ』だ。解散後も独自の活動を続け、私たちとともに50代を迎えた彼らの軌跡をプレーバック―
そもそも、『たのきんトリオ』とは…? 当時、ジャニーズ事務所に所属していた田原俊彦(た/トシちゃん・59才)、野村義男(の/ヨッちゃん・55才)、近藤真彦(きん/マッチ・55才)の3人によるアイドルユニットだ。ジャニーズ事務所社長だった故ジャニー喜多川さんが『たのきんトリオ』と命名。
1枚のシングルも出さないまま、1983年8月、大阪球場で解散コンサートを行った伝説のアイドルだ。
結成から5か月後の1980年10月、彼らの初の冠番組『たのきん全力投球!』(TBS系)がスタート。時を同じくして、当時人気のあったアイドルがコントなどに挑戦する『ヤンヤン歌うスタジオ』(テレビ東京系)にもレギュラー出演し始めた。
『ヤンヤン歌うスタジオ』とは、毎週日曜19時からテレビ東京で放送された人気音楽バラエティー番組(1977~1987年)。司会はお笑いユニット・あのねのね(清水国明・原田伸郎)。当時はまだ珍しい、たのきんトリオやピンク・レディーなどのトップアイドルが毎週出演し、歌やトーク、コントを披露した。
番組開始から9年間司会を務めた、当時一世を風靡した『あのねのね』の清水国明は、当時を次のように振り返る。
「公開番組でしたから、なんかふらふらしている3人組がいるなと思っていたら、あっという間に彼らのファンが大挙して押しかけてきて、入り口に出待ちが増え、みるみるその人数は増えていきましたね」(清水・以下同)
当時は、先輩も後輩もなく楽屋で遊んでいたのが近藤だ。
「本番の声がかかるとマッチなんかは、むしろすごく嫌そうでした。あの中では、ぼくがいちばんの年上だったので、マッチはぼくの顔色をうかがいながら、『原田さん、どこ?』って楽屋に入ってきて、寝ている相方・原田伸郎(68才)の顔を踏んづけるんです。原田は、『いてて…、ここやここや!』って言いながら、みんなで大笑いしてね」
そんな兄弟のような、家族のような雰囲気が、出演者にも人気だったという。
「ピンク・レディーでもたのきんでも、新曲はいつもうちの番組が初出し。うちは曲を間違えても大丈夫だったので(笑い)、フリなんかをうちで練習して他局で成功させるリハーサル番組みたいな扱いだったけど、その分、彼らのいい面がどんどん出てきましたね。川を遡上する鮭が真水に慣れるために海の水が混じり合う河口の汽水域で過ごすように、たのきんにとって“ヤンヤン”は彼らが芸能人になるための汽水域だったのでしょう」
『哀愁でいと』や『スニーカーぶる~す』など、次々にヒットを連発。だが、3人で出した曲は、田原の『哀愁でいと』のB面の『君に贈る言葉(アフタースクール)』と、田原の主演映画『グッドラックLOVE』の主題歌『ときめきはテレパシー』の2曲のみ。
映画では、近藤主演の『青春グラフィティ スニーカーぶる~す』(1981年)、『ハイティーン・ブギ』(1982年)などが大ヒットを記録した。
「マッチは天然だし、トシはいい意味でバランスを考えながら、2人は弾け具合を競い合っててね。ヨッちゃんはその頃からずっとギターを弾いていて、好きなことに没頭するタイプ。でも、いまとなってはそこを極めてるからすごいですよ。トシもマッチも結構尖ってましたから、その間でニコニコうまくとりなすヨッちゃんがいて、いいグループでしたね」
当時の彼らの人気については、冷静にこう分析する。
「独特の感受性でファンが何を求めているのかをピュアにダイレクトに感じて、それをねじ曲げずにストレートに表現していたので、一般大衆には非常にわかりやすく好感が持てたんだと思います」