“松坂世代”の一人、阪神の藤川球児投手が今季限りでの引退を表明したが、実際に甲子園で怪物・松坂大輔と対峙した選手の多くはプロ入りが叶わず、挫折と栄光を胸にその後の人生を駆け抜けてきた。近著に『松坂世代、それから』(インプレス)があるスポーツライターの矢崎良一氏が、今年“不惑”の40歳を迎える松坂世代3人にスポットライトを当てる。
* * *
1998年夏の甲子園。怪物エース松坂大輔(現・西武)を擁する横浜高校は、前年秋の明治神宮大会、春のセンバツ大会を制し、公式戦無敗のまま春夏連覇という前人未踏の偉業に向かって突き進んでいた。
「松坂だけのチーム」とタカを括っていた
星稜高校(石川)の五田祐也主将は、3回戦で横浜との対戦が決まると、取り囲む記者たちに「みんな横浜が勝つと思ってるんでしょ? 俺たち、負けませんよ」と強気に言い放った。地元石川県で「松井2世」と称されたこともある4番の五田を中心に、主力選手たちは附属の星稜中学時代、軟式野球で全国制覇も経験したツワモノ揃い。“無敵艦隊”横浜を相手にしても、「松坂だけのチームでしょ」とタカを括っていた。
しかし、試合前の横浜のシートノックをベンチから見た時点で、「これは勝てない」と圧倒される。「松坂はもちろん凄い。でも、松坂以外(の野手)が凄い」と唸った。
試合は初回、横浜の先頭打者・小池正晃(現・横浜DeNA二軍コーチ)のホームランで先制した横浜が5-0で快勝する。完封の松坂は決して本調子ではなかったが、走者を背負った時、ギアを上げるかのように本気のボールを投げ込み星稜の打者たちをねじ伏せた。
五田はこの敗戦で「野球観が変わった」と口にする。「俺たちは田舎の野球だった」と。それまでは、とにかくたくさん練習して、試合になったら気迫を前面に出していく。それが野球だと思っていた。横浜には、そこに技術や戦術といった要素が加わり、それが強さの裏づけとなっていた。甲子園の後、新聞や雑誌で横浜の記事を貪るように読みあさり、横浜の選手に会えば熱心に話を聞き、横浜の野球を研究する。
大学進学後、高校時代の故障が原因で現役を断念した五田は、一般企業に就職しサラリーマン生活を送っていたが、やがて地元に戻り、自らが育った星稜中学の野球部のコーチに就任する。監督をサポートしながら、五田が技術、戦術を叩き込んだチームは、全国制覇7度という中学軟式野球界屈指の強豪となっていく。教え子の多くは星稜高校に進み、甲子園に出場して活躍したり、プロ入りした者もいる。
「今でも僕の中で“強いチーム”のモデルはあのときの横浜です。あんな凄いチームを作りたい。そして、あの試合前に感じた敗北感。ああいう悔しさを後輩たち、教え子たちには絶対に味あわせたくない.そう思って“野球”を教えています」
40歳を手前にして教員採用試験に合格し、今では母校で教壇にも立つ。“北陸の王者”星稜で、五田はいまや屋台骨のような存在となっている。