多様性は時代を決定づけるもっとも重要なテーマの一つ、ならばミスコンの類はどう捉えていくべきか。コラムニストのオバタカズユキ氏が考察した。
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およそ一か月前に存在を知った一つのツイートが、いまだ気になっている。神戸大学医学部医学科4年生の中島梨沙さんが8月17日に投稿した文章。中島さんは、「ミスキャンパス神戸2020」(オンライン開催)のファイナリストである。そのコンテストの投票中に、彼女はなんとも正直に心の内を明かした。
〈賢い女の子は好かれないと思いこんで、中高では自分の成績をわりと隠してきたし、大学入学後も初対面の人に医学部ですって言うのが少し嫌だった。でもこのミスコンで、“頭がいいなんてすごいです”って前向きに応援してくれる人が多くて、本当に嬉しい! 女の子がバカを演じなくていい世界線って最高!〉
ツイートはちょっとバズって、原稿執筆現在で1218リツイート、1.3万いいね、だ。リプライもたくさんついており、そのうちの〈そんな悩みを抱えてたんやな、、これからは堂々と胸張って楽しくいきましょう!〉という返信に、中島さんはこう応えている。
〈悩みというか、固定概念でしたね。ありがとうございます!〉
というならば、バズッたツイートの内容は、そういう固定概念に縛られていた中島さん個人の問題にすぎないということだろうか。否、そうではあるまい。今でも東大をはじめとした超のつく難関大の女子学生が、初対面の人に自分の大学名や学部名を言いづらいというのは、しばしば聞く話だ。ありのまま言ってしまうと、相手に引かれてしまうからだ。
その「相手」というのは、もちろん男子学生である。そして、男子学生たちにこうした話を振ってみると、多くは「たしかにちょっと、そう思っちゃうところがあるかもしれませんね」といったような返答をする。
中には、「恋人は、本音ベースだと、やっぱ自分の大学より下のところの子のほうに目が行きますよ」とはっきり言う者もいる。実際、自分の大学より「下」の女子大学生しか入れないお遊び系のインカレサークルは、難関大の中に今でもわりと普通に実在する。
なんなんだろう、この時間が止まった感じは。時代は21世紀どころか、令和になったというのに、これじゃ、昭和の男根中心主義からちっとも前進していないじゃないか。世間一般はもっと男女平等社会に近づいているはずなのだが、現実をミクロで見ると、それはタテマエにすぎないということか。
話を中島さんのツイートに戻そう。彼女は、〈女の子がバカを演じなくていい世界線〉で生きることができる喜びを、図らずもミスコンに参加することで知った。
これは実に皮肉な話である。
ミスコンは、関東では東大、慶應、立教、学習院、成蹊、明治学院、東洋、駒沢など、関西では同志社、立命館、関西学院、関西大学など、多くの大学でいまでも催されている。ジェンダー教育が盛んなお茶の水女子、日本女子、東京女子大学でも開かれていたりする。
つまり今でも、十分にメジャーな大学イベントなのだが、一方で昔のフェミニズム運動とはちょっと違った形での批判も、このところ強まっている。その流れについて、教育ジャーナリストの小林哲夫氏は、近著『女子学生はどう闘ってきたのか』(サイゾー刊)でこう説明している。
〈大学のミスコンに対しては、1970年代から90年代まで「外見で判断するのは女性差別」という批判が強くあった。
2000年代に入ってから、大学は多様性を尊重するという考え方が広がっている。女性だけでなく、性的少数者、年齢、国籍、人種、民族などによる違いで差別してはいけない、すべて尊重すべきである、という考え方だ。いま、多くの大学で教育理念や目標としてダイバーシティ(多様化)を掲げている。また、差別されることなく人権を尊重する、という姿勢を明確に示している。
こうした観点から、ミスコン批判が展開されるようになった。〉
多様性の尊重。その観点からの批判で、最初にミスコン開催を中止にしたのは、2011年の国際基督教大だったとのこと。〈学生、常勤・非常勤の教員や職員、卒業生、近所の住民、出入り業者など、様々な立場でICUに関わり、関心をもって〉いる有志の人々が「ICUのミスコン企画に反対する会」を立ち上げた。