日立製作所やKDDI、富士通などで本格的に導入方針が示された「ジョブ型雇用」。社員の業務内容によって賃金を決める制度で、適材適所といえば聞こえはいいが、“体のいい成果主義の再来”との指摘もある。果たして令和時代のジョブ型雇用はどこに問題があるのか──。同志社大学政策学部教授の太田肇氏がレポートする。
* * *
コロナ禍で緊急避難的に取り入れられたテレワークを、コロナ終息後も定着させようとする動きが広がっている。ネックになるのが従来の集団主義的な働き方であり、日本式の「メンバーシップ型」雇用から欧米式の「ジョブ型」雇用に切り替えるべきだという主張がビジネス界で主流を占めるようになってきた。
たしかにテレワークを定着させるうえで「メンバーシップ型」に問題があることは誰の目にも明らかだ。しかし、だからといって「ジョブ型」へ切り替えればよいというのはあまりにも安易すぎはしないか。
私は「ジョブ型」の大合唱を聴くたびに、かつて日本企業を席巻した成果主義の記憶がよみがえる。
周知のように1990年代の後半、日本を代表する企業が先を競うように成果主義を導入し、中堅企業、そして中小企業や公的機関までもそれに追随した。ところが導入してみると、当初に期待したような効果が上がらないばかりか、次々と不都合や不満が表面化し、多くの企業が短期間のうちに大幅な見直しや事実上の撤回を余儀なくされた。
さらに1970年代まで遡れば、「職務遂行能力に応じて処遇する」という趣旨で取り入れられた職能資格制度も、制度の趣旨に添った形で定着させることができなかった点では、成果主義と同じだといえよう。
どちらの制度も、雇用を取り巻く社会のシステムが変わらないなかで、制度だけ取り入れてもうまくいかないことを物語っている。