【書評】『猫を棄てる 父親について語るとき』/村上春樹・著/文藝春秋/1200円+税
【評者】大塚英志(まんが原作者)
村上春樹の最新作『一人称単数』は、短編集とはいえ、どこか世間が「社会的距離」でもとっているような冷めた感じを受けるのは、ぼくだけか。仮にそうだとすれば、前作『騎士団長殺し』で南京大虐殺に言及、今回も直前に出したエッセイ『猫を棄てる』で、父親の中国兵捕虜の斬首について語っていることと無縁ではないだろう。
不都合な歴史への言及は『1Q84』以降、随分、ライト(「軽い」の意味で、「右」ではない)になった彼の読者を怯ませるに充分で、世間も何か遠巻きにしている印象だ。
しかし父親についての告白に触れる時、ぼくが困惑するのは、中国兵捕虜斬首者としての父の象徴として、村上の小説の中で繰り返し描かれてきた皮剥ぎボリスやジョニー・ウォーカーという「比喩として」(村上)の惨殺者らの人物造形の「浅さ」だ。それが村上の演出だったとはいえ、文字通り紙のように薄い。そしてその「薄さ」が、仮託された歴史の重みに耐え得ていなかったと、今更露わになった感がある。確かに、村上春樹が歴史修正主義的なものに政治的な違和を抱いているのは発言からも解る。同意もする。
けれども、『猫を棄てる』では、父は南京虐殺に関与していなかったと証明し、その父は冒頭の捨てた猫が戻るという挿話で、ネコ殺しの罪(村上文学の中で今や何の「比喩」かはいうまでもない)から、あらかじめ許されている。