好きなアイドルやアニメのイベントがあれば足繁く通い、たくさんのグッズを集める“オタク”。その呼び名も市民権を得て、当たり前の存在となっているが、1980年代まで遡ると、また今とは異なるスタイルとなっていた。
松田聖子ファン歴40年の薬剤師の女性・ジュンさん(53才)は、松田聖子の筋金入りの追っかけ。集めたグッズは今でも、専用の部屋に保管しているという筋金入りだ。そんなジュンさんは、十代の頃、松田聖子の“親衛隊”に所属していた。単なる“ファン”よりも、さらに“コア”な集まりである親衛隊とは、どんな活動をしていたのだろうか。ジュンさんが、親衛隊での活動を振り返る。
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親衛隊は、コンサートやテレビの歌番組の公開収録のとき、歌の合間に、「セ・イ・コーッ!」とか「ゴー・ゴーッ!」といったコールを入れて、目一杯の応援をします。コールがそろっていないと美しくないので、ミーティングと練習は欠かせません。
新曲が出るごとに、親衛隊の本部の隊長たちがコールを決め、私たちはそのコピーをもらって練習。主な練習場所は、大阪のフェスティバルホールの前の橋の上でした。
周りはオフィス街で、土曜・日曜は人通りも少なかったのですが、時には盛り上がりすぎて、休日出勤している人たちから通報され、警察が駆けつけて来たこともありましたっけ。
練習時間は、昼の12時くらいから17時まで。ほぼ、休憩を取ることもなくぶっ続けでしたが、もちろん文句を言う人なんていません。聖子のためですから。
ええ、雨の日も雪の日も練習に休みはありません。悪天候などお構いなし。傘をさしながらコールしてました。
当時、親衛隊を取り上げた雑誌記事には「月1〜2回の練習」って書いてありましたけど、とんでもない! 毎週行われるミーティングと練習に一度でも参加しなかったら、ついていけなくなって脱落してしまうから、必死で練習していました。思い返しても、並大抵の根性では続けられないハードなものでした。
実はこの練習場所の近くで、中森明菜や河合奈保子や堀ちえみの親衛隊も練習をしていて、互いに密かにバチバチと火花を散らしていたのもいい思い出です。
えっ、親たちの反応ですか? 中学1年のときから熱狂的なファンだったので、中3になる頃には両親もあきれ顔。「親衛隊に入った」と言っても、あきらめていたのか、何も言いませんでした。
私が通っていたのは校則が厳しい私立の女子校で、コンサートに行くことはもちろん禁止。だけど、先生たちも黙認してくれていたみたいで、コンサートの翌日、ガラガラ声でいたら、先生から「昨日、聖子のコンサートだったんだろ」と突っ込まれたこともあります(笑い)。
ただ、親から聖子のファンをやめろと言われたくなかったので、勉強は頑張りました。そこは意地です。だから、試験はいつも学年で上から10番ぐらいには入っていましたよ。
あの頃の思い出のすべてが詰まっているのが、レディースのはっぴです。私にとって何よりの「お宝」です。
はっぴは元となるデザインがあって、各々自分たちで作って、刺?を業者に頼んでいました。ほかには聖子の写真が入ったTシャツや『SEIKO』のロゴ入りハチマキ、ユニフォームもありました。
自宅の「聖子部屋」に飾ってあるはっぴを見るたびに思い出に浸れますし、いまだに、コンサートがあると当時の仲間たちと着ていくこともあるんですよ。