7月11日に、『サザエさん』で知られる長谷川町子さんの作品世界をたどる『長谷川町子記念館』がオープンし、改めて長谷川さんに注目が集まっている。国民的漫画を生み出した稀代の漫画家は、いったいどんな人物だったのか?
町子さんは、1920年(大正9年)、父・長谷川勇吉さんと母・貞子さんの三女として佐賀県に生まれた。上に長女の毬子さん、次女の美恵子さんがいたが、次女は5才で夭折し、その後に妹の洋子さんが生まれた。
ほどなく父の仕事の関係で一家は福岡に移住する。当時、ワイヤーロープの会社を営んでいたハンサムな父親の勇吉さんは、休みになると娘たちを連れてデパートや郊外に繰り出した。ある休日のこと、勇吉さんは仕事の得意先からの誘いを、体調不良を言い訳に断り、娘たちと連れだって街に繰り出したことがあった。食堂に入ったら、よりによって同じテーブルに得意先の面々がついた。長谷川町子美術館3代目館長で町子さんの作品を出版していた「姉妹社」の社員として半世紀近く彼女を支えた川口淳二さんはいう。
「まるでサザエさんの世界ですよね(笑い)。とにかくお父さんは子煩悩で、仕事よりも家族優先のかただったそうです」
しかし町子さんが13才になった昭和8年、一家を悲劇が襲う。風邪をこじらせた勇吉さんが肺炎になり、帰らぬ人になったのだ。大黒柱を失って、残されたのは4人の女たち。立ち上がったのは母・貞子さんだった。
「貞子さんは常にでんと構える肝の据わったかただったそうです。彼女はこうと決めたことは何がなんでも実行する。福岡では生活ができないと見切った貞子さんは、東京に住む叔父を頼り、一家で上京することを決めました」(川口さん)
14才で家族とともに東京に移り住むことになった町子さんは、山脇高等女学校(現・山脇学園高等学校)に編入。幼い頃から絵を描くことが好きで、この頃は、1日に4~5冊ものノートを描きつぶしていた。町子さんが「アー、田河水泡のお弟子になりたいなァ」とつぶやくのを聞くと、貞子さんは、姉の毬子さんに「この子を田河さんの家に連れて行きなさい」と命じた。