映画史・時代劇研究家の春日太一氏がつづった週刊ポスト連載『役者は言葉でできている』。今回は、加藤雅也がハリウッドに挑戦し、一区切りつけて再び活動の場を日本に移すまでについて語った言葉をお届けする。
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加藤雅也は一九九〇年代後半に渡米、現地エージェントと契約してハリウッドに挑戦した。
「『クライングフリーマン』(九六年)という映画を試写で観た向こうのエージェントから『来ないか?』という話があったんです。『セブン』のエグゼクティブ・プロデューサーでもあり、アンディ・ガルシアやウィレム・デフォーやピアース・ブロスナンのマネージャーでもある人です。『面倒見るから』と言われたら、行くでしょう。
でも、オーディションでいいところまでいっても金メダルがとれない。銀まではいくんです。でも、金でない限り役にありつけない。主役をやる予定だったイギリス映画はユーロが暴落して投資家がいなくなったり、『クロウ2』ではかなり気に入られていましたが、最終でヴァンサン・ペレーズに決まったりとか。
可能性がありそうだから、諦めきれないんです。オーディションで『はい、さようなら』と言われたわけではなくて、監督から『もう一度、会いたい』とか言われていましたから。でも最後は『英語が不安だ』と言われてしまう。今なら日本語の訛りもかなり受け入れられていますが、当時は日本人がアクセントのある英語を喋り出したら観ている人に拒否されると思われていたんです」
演技の勉強にも、アメリカで本格的に触れることになる。
「日本では見様見真似でやっていましたが、アメリカでは一つのシーンを撮る前にエクササイズがある。でも、それを何のためにやるのか分かりませんでした。日本には演技のセオリーがないから。それで演技を勉強することにしましたが、英語が一〇〇%じゃないから、初めはついていくだけで精一杯でした。それで、同じクラスを二年続けて受けたりしましたよ」