日本に“アイドル”という言葉が定着していく1970年代、稀代の作曲家・筒美京平さん(享年80)は南沙織『17才』や岩崎宏美『ロマンス』など10代歌手のヒット曲も量産していた。著書『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018』(青弓社)の中で、アイドルの立ち位置や大衆の受け止め方の変容を詳細に分析しているライターの岡野誠氏が、筒美さんの数少ないインタビュー記事を軸に「筒美京平とアイドル」を考察する。
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ヒット曲を作る──。その一念で仕事に没頭した筒美京平氏は日本のアイドルシーンを語る上で、欠かせない人物である。
筒美氏が日本グラモフォンに入社し、研鑽を積んでいた1960年代、若者から喝采を浴びる橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦は“御三家”と呼ばれ、ジャニーズ事務所のフォーリーブスは“ヤングポップス”などと形容されていた。“アイドル”は元来、外国人のスターなどに用いられていたからだ。しかし、1970年代になると、“少年少女や学生に人気のある外見の良い10~20代前半のスター”が徐々に“アイドル”と呼ばれるようになっていく。
この言葉の定着を考える際、1971年は重要な位置を占める。同年は筒美氏にとって、エポックメイキングな1年だった。尾崎紀世彦の『また逢う日まで』が『日本レコード大賞』の大賞を受賞。堺正章の『さらば恋人』、井上順之(現・順)の『お世話になりました』などもヒットさせ、オリコンの作曲家年間売上ランキングで初めて1位に輝いた。
この年、10代の小柳ルミ子、南沙織、天地真理がデビュー。オリコンの年間シングルチャートでは小柳の『わたしの城下町』が1位を獲得し、筒美氏作曲の南沙織『17才』は11位にランクインした。ともに、新人としては異例の好成績だった。野口五郎も5月に演歌でデビューし、8月には筒美氏作曲の『青いリンゴ』でポップスに転身した。
“10代でルックスの良い歌手が売れる”という1971年のブームは、一時的なものではなかった。翌年に郷ひろみ、西城秀樹がデビューし、程なくして野口五郎とともに『新御三家』と呼ばれるようになる。小柳、南、天地には『新三人娘』という愛称が付き、ヒット曲を連発していった。