南沙織、郷ひろみ、山口百恵、松田聖子など、多くのスターを生み出し、ヒットメーカーとしても知られる音楽プロデューサーの酒井政利さん。先日、今年度の文化功労者にも選ばれた彼は、どんな経緯で音楽の世界に入ったのか? 酒井さんに話を聞いた。
酒井さんは1935年に和歌山県で生まれる。立教大学へ進学するために上京し、卒業後に就職したのは『松竹』だった。
「大の映画好きだったのでうれしかった。ところが1959年、当時の皇太子さまと美智子妃のご成婚ブームを機にカラーテレビが普及し、私が入社した1961年には映画産業の斜陽は明白でした」(酒井さん・以下同)
愕然としていたところ、先輩からコロムビア・レコードで文芸部員を募集しているから受けてみたら? とすすめられて挑戦。3000人の応募者の中から採用された。
「文芸部員って、今でいうところのディレクターのことですよ。私が23才だった1958年当時のスターといえば、美空ひばりや村田英雄。つまり歌謡曲のメインは演歌だったのです。でも、演歌という言葉はまだなくて、作家の五木寛之さんが音楽業界を舞台にした小説『艶歌』(1968年、講談社刊)を発表してから定着したように私は認識しています」
小説の中で演歌は「人々の恨みや哀しみをしっとりとした曲調に乗せて歌う」と定義づけられており、歌謡曲は「演歌」と「流行歌」とに細分化された。
「あるとき、『愛と死をみつめて』という本を読んで感動しましてね。顔の軟骨肉腫って、今でいうがんに侵された女子大生と、その恋人の往復書簡で、後に大ベストセラーになりました。
私は早い段階で出版元である大和書房の社長に交渉してレコード化の権利を得たのです。文芸作品から映画が生まれるように、音楽が生まれるのもアリだと閃いて。しかも、作詞家も作曲家も歌手も新人でやりたいと考えた。古い体制を打破したいと思っていたのです。意気盛んというより生意気でしたね(笑い)」
こうして生まれた『愛と死をみつめて』は、新人歌手・青山和子によって歌われ、吉永小百合、浜田光夫出演による映画化や、橋田壽賀子脚本、石井ふく子プロデュースによるドラマ化の人気と相まって大ヒットに。1964年の「日本レコード大賞」に輝いた。