放送作家でコラムニストの山田美保子氏が独自の視点で最新芸能ニュースを深掘りする連載「芸能耳年増」。今回は不倫報道を認めて無期限の活動自粛をすることになった近藤真彦(56才)について。
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新卒でラジオ局のレポーターの仕事を始めたのが1980年。同年12月、マッチこと近藤真彦が『スニーカーぶる~す』でソロ歌手デビューした。
生番組には2台の中継車があり、先輩女性は6月に『哀愁でいと』でデビューしていたトシちゃんこと田原俊彦の現場に行くことが多かったせいで、私はマッチの担当になった。
アイドル全盛期で、全曜日に歌番組があり、在京民放テレビ局の全てが音楽祭をもっていた頃。ラジオの文化放送とニッポン放送にもそれぞれ「新宿音楽祭」「銀座音楽祭」という、新人にスポットをあてた、文字通り、お祭りがあった。
当時としては、小泉今日子、堀ちえみ、石川秀美、中森明菜、早見優、そしてシブがき隊らの「花の82年組」が有名だが、82年デビューのみならず、新人だけ集めても十分豪華な音楽祭がやれた頃。「日本テレビ音楽祭」には、新人だけでなく、デビュー2年目にも輝いた歌手に与えられる「金の鳩賞」というのがあったほどだ。それぐらい、80年代前半にデビューしたアイドルたちは人気を博していたし、ヒット曲を多数もっていたのである。
ちなみに松本伊代は、デビューは1981年だが、『センチメンタル・ジャーニー』発売が10月だったため、「82年組」と新人賞レースを争った。12月デビューのマッチも同様で「81年組」に。賞を決める年末まで期間が短すぎるので「不公平」という理由で、翌年のカウントになったのである。それほど当時の歌手やプロダクション、レコード会社は賞レースを重要視していたことになる。
男性ソロアイドルで「もっとも賞に縁があった」マッチ
男性のソロアイドルで、もっとも賞に縁があったのはマッチだったのではないか。デビューでは新人賞を総ナメ。1987年には「日本レコード大賞」を受賞する。後に明らかになったことだが、この受賞に際しては、前年に事故で亡くなられたマッチのお母様の御遺骨がお墓から盗まれるという事件が起きた。返してほしければ受賞を辞退するように…と脅迫されていたという。
2010年には「日本レコード大賞」で「最優秀歌唱賞」を受賞する。さらに昨年は、故・ジャニー喜多川さんに代わり、「特別音楽文化賞」の盾を胸に、レコ大のステージに立ったマッチ。
この4回全てにおいて、間近で立ち会うことができた私。なかでもマッチが「レコ大」の「大賞」を獲得した1987年には忘れられない思い出がある。
当時、既に放送作家としてスタートをきっていた私は都内某所において年跨ぎで生放送している音楽番組のスタジオにいた。
やがて周囲がザワザワし始め、「マッチが来るらしい」と。レコ大を仕切っているTBS以外の局だったが、番組プロデューサーは誰もが知っている音楽番組を制作していた業界の大物。その男性に、マッチが受賞の挨拶に来たのである。
デビュー時から何度も会っていたので、マッチ本人の登場には驚かなかったのだが、そのとき、お付きの人たちが台車に載せて運んできた大量の箱には驚いた。大賞獲得祝いの引き出物である。記憶では、「大」と、それよりやや小さい「小」があり、駆け出しの放送作家の私の分まで用意されていたことに、また驚いた。中身は「おでんセット」。電気おでん鍋と、つゆに入った具材……。在京局を回ってきたのだとしたら、いったい、いくつ用意していたのか。バブル期というのに加え、音楽業界の景気も抜群に良かった時代。そして事務所にとっての初の栄誉となった「大賞」獲得が、ここまで派手にさせたのかもしれない。
その後、マッチとは、あらゆる場所で遭遇する。日々、ジャニーズを取材している記者さんの“回数”には敵わないのかもしれないが、クルマが好きで、自動車メーカーと仕事をしたり、レース場にも顔を出したりしている私は、多くの場所で、マッチを“独占”してきた。
言うまでもなく、マッチもクルマが大好き。事務所幹部から「公道でスピードを出すなら、レース場へ」との助言により、サーキットでも有名人になっていった。